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「AIなんてクソくらえよ!」
AIについて話す場所を作っている私が、最近そんなことを思いました。
汚い表現でごめんなさい。
我ながら、だいぶ終わっています。
もちろん、本気でAIが嫌いになったわけではありません。
明日も使います。たぶん今日もこのあと使います。
これはAIを否定したい人間の話ではなく、好きで触っていたら少し変な場所まで来てしまった、馬鹿正直で実に愚かな骸骨の思考の物語です。
*
昔のAIには、よく「違う」と言っていました。
これじゃない。
そうじゃない。
なんで急にそうなる。
頼んだものと全然違うものを出してきて、もう一度説明する。
また違う。
言い方を変える。
少し近づく。
その繰り返しでした。
不便でした。
でも今振り返ると、私はあの「違う」を結構楽しんでいた気がします。
自分の頭の中には何かがある。
でも、それをうまく言葉にできない。
AIもこちらの意図を完全には理解できない。
だから、自分の中にあるものと、画面に出てきたものを何度も見比べる。
違うと思ったら、「何が違うんだろう」と考える。
色なのか。
空気なのか。
構図なのか。
そもそも、自分が最初に考えていたもの自体が曖昧だったのか。
AIを調整していたつもりが、自分の頭の中を調整していた。
たぶん、あの時間が面白かったんです。
ところがAIは、ちゃんと進化しました。
こちらが全部説明しなくても補ってくれる。
曖昧な言葉から、意図を拾う。
少しくらい雑に話しても、それなりに形にして返してくれる。
すごいことです。
仕事では本当に助かっています。
3時間かかっていたものが30分になるなら、私は普通に30分を選びます。
「いや、3時間かけたほうが魂が宿るんですよ」
などと言い始めたら、たぶん誰か止めてください。
ただ、不思議なことが起きました。
AIが賢くなって、思い通りになる確率が上がるほど、
「あれ、前より面白くないかも」
と思う瞬間が出てきた。
最初は、なんて贅沢なことを考えているんだと思いました。
言うことを聞かなければ文句を言い、言うことを聞くようになったら「昔のほうが良かった」と言う。
完全に面倒な元カレです。
でも、AI自体が面白くなくなったわけではないんですよね。
たぶん変わったのは、私のほうです。
*
最近、「ドパガキ」という言葉を見かけます。
短い動画を次々に見て、強い刺激を間を空けずに求め続けるような状態を、かなり乱暴に表した言葉です。
一本見る。
面白い。
だからもう一本見る。
つまらない。
すぐ飛ばす。
また面白い。
次へ。
満足したから止まるのではなく、満足したから次の刺激が欲しくなる。
生成AIを触っていると、これとよく似た感覚があります。
いいものが出た。
なのに、もう一度生成する。
もっと良いものが出るかもしれないから。
そして厄介なことに、本当に出ます。
だからまた押す。
画像だけではありません。
面白い使い方も同じです。
誰かがAIで「こんなことができた」と投稿する。
それを見て、私も「これ面白いな」と思う。
試してみる。
そこから別の人も試す。
少しずつ形を変えながら、あっという間に広がっていく。
別に、これは悪いことではありません。
私だって面白いものを見たらやってみたい。
知らない技術を見れば知りたいし、便利な方法があれば普通に使います。
そもそも人間は、昔から人の真似をしながら覚えてきました。
好きな映画を見て影響を受ける。
好きな人の服装を真似する。
誰かの文章に惹かれて、自分の書き方が少し変わる。
完全な真空から何かを作る人なんて、たぶんいません。
だから「真似はダメだ」という話にしたいわけではないんです。
むしろ、そこを否定したら自分までかなり怪しくなる。
私もいろんな人からできています。
ただ、AIとSNSが組み合わさると、その循環がものすごく速い。
昨日見て「なんだこれ」と驚いたものが、数日後にはタイムラインのあちこちにいる。
一つの面白さが見つかると、作り方まで共有される。
使うモデルもわかる。
指示の仕方もわかる。
似たものを作るまでの距離が、一気に短くなる。
その結果、何が起きるのか。
「同じ作品が増えてつまらない」
ではありません。
そこまで簡単な話でもない気がします。
私が少し怖いのは、
自分の「面白い」まで、一緒に高速で消費しているように感じることです。
昨日まで面白かったものに、今日はもう反応しない。
もっと変なもの。
もっと新しいもの。
もっと見たことがないもの。
刺激の基準が少しずつ上がっていく。
すると、作品より先に自分の感覚が摩耗していく。
そんな瞬間があります。
*
そして、ここにSNSが入ってくると、さらに話が面倒になります。
面白いものには数字がつきます。
たくさん見られる。
シェアされる。
フォロワーが増える。
仕事につながることもある。
今の時代、それはかなり具体的な価値です。
私も仕事をしている以上、「数字なんてどうでもいい」とは言えません。
広告を作るなら数字を見るし、反応が取れたものには理由があると思う。
自分が何かを投稿して反応が良ければ、普通に嬉しい。
なので、
「数字を追うなんてくだらない、自分の好きなものだけ作ろうぜ」
とも思いません。
それができる状況の人ばかりではないし、
数字を追うこと自体を楽しんでいる人もいる。
そもそも、SNSという場所に立っておいて注目を完全に無視するほうが、ちょっと変です。
だから困るんです。
合理的なのはわかる。
反応が取れる理由もわかる。
自分だってその仕組みの中にいる。
なのに、ときどき画面を眺めながら、
「これ、何が面白いんだっけ」
と思う。
これは誰かに向けた言葉ではありません。
自分にです。
*
たとえば誰かの投稿を見て、
「そのやり方、面白そう」
と思ったとします。
やってみる。
楽しい。
そこには何の問題もない。
むしろその瞬間の楽しさは、本物だと思います。
人間の面白さは、世界で最初に発見した人だけの所有物ではありません。
初めて料理を作った日。
初めて自分で映像をつないだ日。
初めてAIから思い通りの一枚が出た瞬間。
誰かが先に同じことをしていたとしても、自分の中で初めて起きたことなら、ちゃんと新しい。
私はそこを失いたくありません。
だからこそ、
「オリジナリティを持とう」
という結論にも、あまり行きたくない。
なんだか急に、学校の先生みたいになるからです。
そもそもオリジナリティって何でしょう。
誰からも影響を受けていないものなのか。
誰もやっていないものなのか。
それとも、同じ材料を使っていても、その人を通ればオリジナルになるのか。
どれも少しわかるし、どれも少し怪しい。
しかもAIに聞けば、この問いにもかなり立派な答えを返してくれます。
「オリジナリティとは既存要素の独自の再構成です」
みたいな。
たぶんもっと良いことを言います。
そして私はそれを読んで、
「なるほど」
と思う。
ここでまた、少し怖くなる。
その「なるほど」は、本当に私が考えた結果なのか。
それとも、答えを見たから納得しただけなのか。
*
AIは、答えを出すのが速くなりました。
作るのも速い。
調べるのも速い。
迷ったときには、選択肢まで整理してくれる。
最近は「もっと深く考えて」と言えば、かなり深いところまで潜ってくれる。
その答えに納得できなければ、
「その結論を壊して」
と言えばいい。
また別の答えが出る。
さらに壊せる。
ずっとできます。
これは思考を深めているのか。
それとも、ショート動画みたいに「次の答え」を消費しているだけなのか。
ここが、まだ自分でもよくわかりません。
AIを使えば使うほど、私は考えているはずです。
以前なら思いつかなかった問いにも出会う。
自分の知識だけなら行けなかった場所まで行ける。
これは間違いなくあります。
でも同時に、答えが出ないまま一晩寝ることは減った気がする。
わからないものを、わからないまま持っておく時間。
それは確実に短くなりました。
*
思えば、人間はかなり余計なことを考えています。
これ、他の人と被っていないかな。
誰かにパクリだと思われないかな。
こんなの出したら笑われないかな。
もっと良いものがあるんじゃないか。
今出すべきかな。
やめようかな。
面倒です。
AIに相談すれば、整理できます。
他人の目を気にしすぎていますよ、と言われるかもしれない。
論理的には出したほうがいい、と背中を押してもらえるかもしれない。
それで動けるなら、素晴らしいことです。
ただ最近、この余計な時間まで全部なくなったら、自分はどうなるんだろうとも思います。
迷いなんて少ないほうがいいのかもしれない。
それとも、あの意味のないぐるぐるの中に、自分の好みや怖さや欲みたいなものが混ざっていたのか。
まだ、よくわかりません。
AIは摩擦を消してくれます。
私はそれをかなり歓迎しています。
でも、どの摩擦を消したかったのかまでは、考えていませんでした。
ここ一年くらい、毎日AIを平均19時間使ってみた結果、少しだけ、
「無駄って、全部同じ無駄じゃなかったのかもな」
と思い始めています。
最新のAIを追いながら、わざわざ遠回りの話をしている。
時代の先端にいるつもりで、気持ちだけ逆走しています。
実に面倒な骸骨です。
*
最初の話に戻ります。
昔のAIには、よく「違う」と言っていました。
今は、その回数がかなり減りました。
AIがこちらを理解できるようになったからです。
それは間違いなく進化です。
でも最近、代わりに別の「違う」が増えました。
良いものが出ている。
ちゃんと綺麗。
よくできている。
たぶん人にも褒めてもらえる。
なのに、
「なんか違う」
と思う。
今度はAIに対してではありません。
自分に対してです。
何が違うのか。
まだ、うまく説明できません。
だからAIに聞けばいい。
たぶん、かなり綺麗に整理してくれると思います。
でも、この問いだけは、
もう少し整理されないまま持っていてもいい気がしています。
「AIなんてクソくらえよ」
と悪態をつきながら、
明日も普通にAIを開く。
そして何かを作って、
たぶんまた画面の前で考える。
これ、本当に私は面白いと思ってるんだっけ、と。
<あとがき>
これを書きながらも、AIは横にいます。
なので決別宣言でも、AI否定の記事でもありません。
便利なものは普通に使いたいです。
ただ、AIが賢くなっていく速度に合わせて、
自分の「面白い」までアップデートし続けなくてもいいのかなとは思っています。
たまには「なんか違う」で止まる日があっても、
その理由をすぐ説明できなくていいのかもしれません。



何かを学んだり、出来なかったことができるようになること、そのプロセス、結果に喜び、刺激を受けることは最大の娯楽だと思います。そしてそれを感じやすく、得やすくしているのもAIだと思う。これまでモヤっとしていたもと、日々の積み重ねの先にようやく得ていたものが、すっと出来る、そしてそれがすごい勢いで加速され、消費される感覚に変わっていく。その感覚すごくよくわかります。この延長線上に本当の幸せがあるのかな?と思ったりもします。少し考えをずらす、違う角度から見直す、自分の頭だけで考えて、捉えなおす、肌で感じ取り直す。向き合い方を考えるときかもしれないですね。
「整いすぎた答えより、少し歪んだモノにこそ創造の温度が宿る。」
と私は考えてます。
AIが磨いてくれる精度と、自分の中に残しておきたい曖昧さ。
その両方を抱えて進む姿勢が、今のAIを活用したクリエイティブのリアル。
AIが速くなるほど、ゆっくり迷う時間の価値が浮き上がりますよね。
何でも瞬時に叶うようになった時、無いものねだりが得意な人間は何をねだるんでしょうか?